あらしの翌朝

 たった一日でしたが、強風と大雨にみまわれた一日でした。9月の台風以来、上昇したままの湖面の水位を気にしながら、
伊豆半島に発令された波浪警報や大雨警報に耳をかたむけ、断続睡眠を余儀なくされた晩でした。
 一夜明けての快晴、紅葉はすべて散り、テラス前の樹木の枝が多々折れて、湖面がすけすけに見えています。
 一匹の小りすが、ひのきを頻繁に上り下りして、樹皮をむいて上手に丸め、一足飛びに木のてっぺんにある巣を往復すること、約1時間半。一度も休憩をとらず、ひたすら巣材を巣に運び込んでいました。おそらく、嵐で浸水したか、損壊したかの巣を補修、補強しているのでしょう。
 ふと見ると、少しはなれたひのきの幹にも、もう一匹の小りすが上り下りしています。
 なんとも働き者の彼らです。野鳥とちがって、繁殖の営巣以外でも毎晩巣をしとねとする彼らにとって、やはり巣の安全は必須なのだと、あらためて思いました。
 近くを、カラスが低空飛行しはじめ、ひやひやしましたが、うまく免れたようです。
 わたしは不器用で、両手と口だけで、自分のねぐらを補修するなんて、まったく出来そうもないので、りすママなどと、とても名乗れた身分ではない、きょうは痛感しました。

        だから、きょうだけは、  あみんママ
スポンサーサイト

旅の定義

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」とうたった芭蕉に、あらためてうなる2011年の秋です。旅先で出逢う人々や場所だけでなく、時間までをも擬人化してしまうその視点に、大きなため息さえもれます。
 芭蕉の視界に、一歩ずつふみこんでいくのも、おつな旅かもしれないと思うものの、はたしてそれはどういう旅なのか、具体的に描けないのが、たいへんもどかしく、可笑しくもあります。つまり、人生そのものが旅だと称した芭蕉自身が、じっさいには日本中を旅した旅人であったことが、理解をむづかしくしていると思います。
 一箇所にとどまって、旅を旅することがはたして可能かどうか? 芭蕉の哲学からすると、もちろん可能なんですよね。でも、その日常で、行きかふ時間を旅人と思えるかどうか? 
 ああ、これを考えるだけで、長い冬をあっという間に過ごせるような気がしてきました。さらに、その冬の期間は、旅の途中といえるでしょうか? 
 
                         りすママ
 
 
プロフィール

marubaba

Author:marubaba
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード